自分に優しく、他人に厳しい、こんな人を見ると腹が立つ、そんなあなたのストレス発散、バッティングマシーン、 ユキーナ ・サントスです。

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前回のメール、人間として正しいことをしなさい、と大学生に話した時、これは宗教じゃないか、と口をとがらせて嫌悪感を示した生徒がいた、というお話をしました。その後JALや京セラの不祥事が起こりました。

人間として正しいことをする、楽しいことやったとしても、所詮こんなことが起こるんじゃないか、これは変えられないんじゃないか、 このような意見を友人から聞きました。

うがった見方をすれば、ほれみろ、かっこいいこと言ったって、結局不正をやるんだろう、人間は完璧でなんかいられないんだろう、という斜に構えたような視線を見ることもできます。

こういう発言の奥の心理を見ていくと、自分が正しいことをやっても、結局は馬鹿を見るのは自分だ、心をピュアにして傷つくのは自分だ、自分が傷つくようにするものか!!!という潜在意識が働いているようにも見えます。

私もこれについてずっと考えていました。仕事の面でも、不動産という仕事、不動産の評価という仕事、この大義名分を見つけることができないでいたからです。

ですが、このことを合気道の山口先生に相談したところ、少し考える方向性が出てきたような気がします。気持ちが軽くなったと同時に、いろいろなことがストンと腑に落ちたような気持ちがしました。 山口先生から光をもらったような気がしたのです。

先生はこのようにおっしゃいました。

「半聖半俗」

いくらきれいなこと言っていたって、人間は汚いものをだすじゃないか、自然の理はこう説いているんだよ。俗世界での成功、お金と地位と名誉を求めて努力する、そして成功する、これもまた必要なことなんだよ。

確かにおっしゃる通りだなと思いました。自分たちが忌み嫌う悪や人間の煩悩から、純粋さや聖なるものが生まれることもあります。また汚れなきこと、聖なることにこだわっていても、おのずと俗世間の欲望にまみれていきます。

この私の友達からの質問、綺麗事を言ったって不正があるでしょう、ですが、この半聖半俗の理に立ち返ってみると、こんなふうに考えることができるのだと思います。

自然の法理法則は、その中に聖なるものと、俗なるものを一緒に持っている。どちらが真実でどちらが偽りでもなく、どちらも表裏一体のもの、だからその人を憎むことはできない。この人に罪を犯させた仕組みを考え直すための、その機会をわれわれはもらっているのであって、決して心の底からその人を憎む、この憎悪の想いを燃やすために、この不正という出来事が起こっているのではない。

なぜならば、この人がやったことは、自分の中の悪の気持ちで、この人はまた自分なのだから。心の中に、お酒や色事や欲望に溺れたりしない、という強い気持ちがあって、微塵もこの思いを抱かない、そういう人は人の弱さを責めることができるでしょう、でもそんな人がいたら、それはもうすでに人では無いのでしょう。

人間には欲望がある、いい意味でも悪い意味でも、この欲望が人を動かしている、これを理解した上で、罪を作らせない仕組みを作っていく、目の前に起こっている罪は、自分の欲望の表れだと見て、自分の心を解放し、磨いていこう

 

おそらくこういうメッセージがあるのではないかと思います。そして自分は聖人ではない、俗人だと考えることで、人を許すことを覚え、目の前の不幸にとらわれず、不幸の裏側の幸福を見つけることができるようになるのだと思いました。

また次の機会に、このテーマについて深く、考えてみたいと思います。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。